ハンス・ロスリングに学ぶ②

Fact fullnessにもありましたが、私たちは世界を勘違いして認識しています。当たり前と思っていることの正確さには興味はないようです。私もそうです。ニュース、教科書、雑誌などなにも信じるなとは思いませんが、批判的に見る視点が必要なのです。

 

ハンスさんは貧困地域、過疎地域での医療では目の前の患者さんだけでなく、病院に来ない人の生命にも責任があると言っています。先進医療で未来の人を救うのではなく、公衆衛生で今の人たちを救う研究に取り組んでいたようです。その病院、その地域では当たり前のこと、手遅れで亡くなる状況は、他の国や地域では異常なことなのですが、当たり前の環境にいると異常には気づかないものなのですね。

 

国や場所、地域が違うことで問題となることも違ってきます。小児の死亡率だったり、高齢化社会であったりです。今私のいる環境では…、当たり前のこととはなにか。家族が介護を担う主役であったり、認知症の方が家で暮らすのは家族我慢であったり、病気になると外出を始め決断することの制限を受けたり、高齢者の人生にはなにに目標を置くかわからなくなっていたり、運動をすれば元気になると思っていること、制度資源があるのにあえて乗らないこと。

 

大きく見れば、高齢者の増加とともに介護認定者数の増加がそもそもの問題なのです。介護保険の支出の増加、介護事業の人手不足で在宅で暮らす、または看取ることが出来なくなるのではないかという問題です。

 

 

ハンス・ロスリングに学ぶ

Tedで有名なハンス・ロスリング。そのプレゼンと内容は本当におもしろく、分かりやすく、そして有用なものです。統計を駆使して、視覚的に訴えるものでありかつ、世界というものを多くのひとがどのように捉えているかを明確にしています。

 

その精神は公衆衛生であり、世界は良い方向にむかっている、そしてよりより世界にするために私たちは認識を改めて、行動し貢献することができることを明らかにしてきました。

 

「私はこうして世界を理解できるようになった」を読むことによって、ハンス・ロスリングの生涯を踏襲し、そして公衆衛生の精神に至ったのかを学ぶことができます。最近自分のいままでの人生を振り返りリハビリに携わることを選日ましたが、それでよかったのかを考えていました。高校生の頃は目標も楽しみない状態の中で日びを過ごして、その中で進路を決めなければならない状況から理学療法士を選んだ道以外に他にあったのかと。リベラルアーツを学ぶことを通じて世界の動きを垣間見て、その中で私自身がどのように社会に貢献することができるのだろう。その中で見出したものが公衆衛生でした。リハビリの精神のなかで、経済の状況を含めて考えて住民の健康や寿命を改善していく。これこそ私が情熱を注ぐ価値のあるものでした。

 

ハンスの家族は様々な環境で育った人々でした。しかし、それを知ることでハンスは、人の考え方の枠組みが変わること、そして教育の環境により事実が歪められて認識されることをなんとなく悟っていたのではないでしょうか。だからこそ世界を理解して、現実的に対処することで間違いないく世界が良い方向に進んでいくことを理解していたと思います。

 

私もいまの仕事を振り返ると、自分自身の家族と教育の環境が私の考えの枠組みにどのように寄与しているのかを考えなければいけません。そして、私が働く地域社会は、私が把握しているように現実を正確に反映しているのでしょうか。それを正確に私は理解しているのでしょうか。私がいる地域の現状を理解することから始めましょう。私が提供しているリハビリは決して個人だけを対象にしているわけではありません。本人とその人が生活する地域社会をより良い方向に導く仕事も包括しています。

 

障害者、高齢者の生活は福祉国家に見合うだけのレベルなのか。余生を苦しみながら過ごすことになっていないか、社会参加と言えるだけの活動を達成する支援をすることができているのか。

 

介護保険を利用して本当に生活的にも、意志的にも自律した生活を送ることができているのか調査する必要があるのでしょう。

リベラルアーツと教育

最近はまっているリベラルアーツの話をしましょう。リベラルアーツは日本語にすれば教養というそうです。教養といえば、人を褒める時にあの人は教養があるとかいいますよね。私は最初にリベラルアーツ関係の本を読む前には教養=知識という認識でした。すなわちも博学というか、物知りという意味であの人は教養があるなと言っていた気がします。

 

実際にはリベラルアーツは自由7科と呼ばれる、文法、論理、修辞、算術、幾何、天文、音楽と言われています。古代ローマから受けつがえれているそうです。教育が昔からあるなんて驚きですね。それだけ教育の重要性は昔から認識されていたんですね。現在でも教育といっても子供のためのものでもありませんよね。昔のギリシャやローマは当然戦争がたくさんありました。ですから教育は最初は戦争に役立つ人物の育成だったそうです。一方では、農業に役立つ人物の育成からスタートしたところもあるそうです。地域の文化からスタートしたものと同時にやはり宗教の出現もそこに影響を与えています。つまり、宗教が末長く存続することができるように、宗教の伝承としての教育も盛んに行われてきたようです。イメージしやすいとは思いますが古代ギリシャの政治は共和制に近い形だった思います。ですから、戦争に役立つ人物や農業に役立つ人物の育成とともに、政治を1つの権力に好き勝手させないように民間からも優秀というか広い知見を持つ人物を養成する役割をもっていたともいえます。

 

そうした過程をへながら自由7科はなぜ自由か。人を自由にさせる科目なのです。つまり、自由とはたくさんの社会的環境や習慣に制約

されることなく、自由にものを考えて実行することができる能力を育成する学問といえると考えます。私は、上記にあげた科目が今も教養に繋がるとは思いますが、突然の出演ですが池上さんが挙げている教養の方が現在では教養に繋がると思っています。例えば、経済や宗教、宇宙、歴史などがそれです。私はこれらのことにほとんど興味がありませんでしたが、勉強するうちにその魅力に取り憑かれています。特に歴史は人類が作り上げてきた文化や考え方の集大成を学ぶことができる学問だと思います。

 

それに加えて数学も興味を惹かれる学問です。私は正直いって数学が苦手です。それでも学ぶことに楽しさを覚えるのです。私はリハビリの仕事をしていますが、本来ならばリハビリを行えばその効果を判定することが必要でいつものその効果を発信しなければいけません。ですから、すでに日常生活の様子を数字にしたり、体の動きにを数字にして表すための指標が存在しています。ですからもっとこれらの指標を有効活用しばければならないのです。しかし、どうも利用しきれないでいました。これらのことを数字にして利用することがリベラルアーツとして数学を学ぶことでそのつながりを捉えやすくなった気がします。

 

つづく…。

 

本人、支援者どちらが最良の選択なのか

病院から退院して、自宅に帰ることになると、自宅での生活を支援するために様々な介護資源が投入されます。ケアプランは、当事者が生き生きと在宅生活を送れるように計画されたものです。自分でどこまでできるか、どこからが支援が必要なのか、主観的な評価と客観的な評価がずれていると本当に必要な支援の導入が難しくなります。いやむしろ、必要というのは本人以外の人が必要だと思っているサービスに変わってしまいます。

 

自分は一人でできると思っている、だけど他の人は支援が必要だと思っている。サービスの導入には承諾が必要で、必要のないものには承諾はあり得ません。サービスの決定件は本人にあります。しかし、色々な方を見た経験の多い支援者の視点はあながち間違っているとも思えません。そんな時にどうするのが良いのか。

 

例えば外出。本人にとっては外出は生活上必要不可欠な活動です。気分転換、活動、他者との関わりの点から見ても価値があるものです。本人は一人で大丈夫、外野は一人では無理と思っている。サービスを導入するか、否かは、本人にとってどれくらいの利益となるのでしょうか。導入のメリットは、入らなければ途中で体調不良や転倒が起こっても、すぐに対応ができないので、万が一の対応が素早くできることと段差や車の乗り降りなどの時に手伝ってくれるという効果価値が得られるでしょう。さて、それをどうやって導入するか…。

 

支援をされることが本人にとってはどんなことなのか。逆に気を使うとか、周囲の人に手伝いされていると見られたくないとかあるかもしれませんが、支援者の合理的考えからするといざという時のための人手です。ですから、本人にとってはサービスの導入によるデメリットの方が大きいと考えているのかもしれません。メリットデメリットの話なんですが、それぞれが注目している点が違うようです。

 

しかし、それをどうやって同じ土台に立ってもらうのか。

少子高齢化サラリーマンの理学療法士の働き方

日本の人口減少が進む中で、65歳以上の高齢者が占める割合は2042年には約3900万人に達する予想がされています。その中で生産人口は減少して、財政収入が減少すれば社会保障の継続も危ぶまれます。そうなると、利用者の負担を増やすか、保険料を増やすか、税金を増やすかの話になってきます。しかし、保険料、税金共に増やすことは年金受給世代でも、現役世代でもかなり苦しいことです。

 

「日本人の勝算」という書籍を最近読みました。少子高齢化の中で財政を維持して社会保障を確立していくためには、GDPを高めて必要な社会保障の財源を確保することが必要だと言っています。日本は人材、能力が高いのに生産効率がかなり低いのだそうです。だから、長時間労働や、自分の時間を犠牲にして働いて生産性をカバーしている状態なのです。しかし、ポテンシャルは持っているので、能力が発揮されれば生産性はあげられるとのことなのです。

 

理学療法士の働き方方で生産性をどうやってあげたら良いのだろう。最低賃金と生産性に相関があることが再三書かれています。賃金アップは願ってもないことですが、生産性アップをどうしていったら良いのかとまた考えてしまいます。対象者の経済活動が向上できれば、間接的にはGDPを押し上げる要因になるかもしれません。公的制度で料金が決まっている以上、リハビリの単価を上げることはできません。すると1日のリハビリ実施量を上げなければいけません。しかし、それでは結局長時間労働につながってしまうのではとも考えます。

 

新しい仕事の仕方、社会への貢献の仕方が必要です。理学療法士は基本にあるのは解剖生理を根拠に置く、物理的な体へのアプローチです。現在では、対象者の動作の特徴から安全に動けるように手すりや、動線の提案などを行なっています。これらは対個人で、実際に会って行うものです。これらとは違うものとしては、

 

AIを利用して予後予測をして注意喚起を提供して、多職で連携するのはどうでしょうか。退院時の評価として関わるということですね。

 

あとは、難病の方のコミニュケーションツールやナースコールを操作するスイッチの開発を個別対応で行うというものもありますね。

 

遠隔で複数名で評価体操などのリハビリを提供する方法もありますね。

 

参加活動を促進する役割なのに、そのすべやコネクションを持っているセラピストがどれくらいいるのでしょう。そもそも参加活動のバリエーションを知らずにそれを達成できるのでしょうか。

 

福祉の世界には色々な活動をしている方々がいます。もう少し私たちも関わっていかないといけませんね。

 

 

 

 

高齢者の生活、お金の観点から

介護保険は総額約10兆円の規模だそうです。利用されたサービスに支払われる対価は、1割は利用者自身が負担します。残りの9割は公費と保険料から支払われます。負担割合はその利用者の所得にもよります。

 

公費の内訳は25%が国、12.5%は県、12.5%は市町村です。残りの50%は保険料として40歳以上の方から徴収されます。

 

年齢が上がるにつれて介護認定割合が増加するということは、サービスの利用が増えて、財政における介護保険の支出も増えるということです。国としては、介護認定者数が増えようとも支出を減らしたいのです。もちろん、支出が増えれば私たちの保険料の負担が増えるのも必至です。体の機能活動にとっても、財政にとっても介護予防はなくてはならない課題でしょう。

 

こういった経済の視点から生活の目標を考えてみるのもいいのではないか。介護保険でのサービスは、利用者にとってはサービスの消費ではありますが、その支払いは税金や保険料からであり、あまり経済活動としては新たに利益が生み出されているようには思えません。ある書籍によれば、消費がまだまだ日本は少ないそうです。まあ卵とニワトリの話になってしまいますが、所得が増えるから消費が増えるのか、それとも逆なのか。いずれにしろ、経済活動としての消費が生まれなければ、日本の財政の好転化は難しいと思います。障害の分類の参加を経済活動ができると考えると、就労だけではなく消費ができることを目標にしてもいいのではないでしょうか。

 

自分の好きなものを買って食べる、子供や孫に何か贈り物をする、そういった消費をすることができれば、経済活動すなわち社会への参加としてもなんらおかしくありません。それを達成するために、外出して買い物をする、食事する、もしくはネットを利用して買い物をする環境や方法を支援することが必要かと思います。

 

本人の意思が表出できれば、思ったものを。認知症になっても、家族や友人を囲って食事やお楽しみの会合を開いても…どんな形で良いと思います。こうしたことが目標となれば、身体機能は問わない形となります。以前に挙げた生き生きとした、自分らしく、そして介護の負担を減らして、苦痛なく生活を色々とひっくるめて、高齢者の生活の目標を考えていくべきと思います。

 

 

人生100年の時代に何をリハビリの目標にするのか

現在75歳以上の高齢者は日本の人口の約15%だそうです。そのうち35%近くが介護認定を受けているようです。65%が要介護認定を受けずに生活をしているともとれます。以前記載したように、要介護認定を受けた高齢の方の生活スタイルは私が見てきただけでも多様です。75歳以上の方は、ほとんどが会社で仕事をしていないのではないかと思います。自営の方もいれば、畑をしている方もいるし、外出は散歩だけという人もいるでしょう。自宅での家事だけはは生涯続くことになるかと思います。一人住まい、夫婦だけの世帯も、家事については同じ条件です。

 

病気や障害でこれらのことができなくなった時には、生活の再構築のために何を目標にリハビリをしていけば良いのか。外出は車椅子やヘルパーを使えば、家事もヘルパーを利用すれば生活は再構築され、自宅で暮らすことは可能でしょう。しかし、片麻痺の障害を負った場合などを考えると、今まで行っていた家事や外出の自由の権利を他者に渡すことになります。この家事をやりたい…トイレには自分で行きたい。もちろんそういった希望があれば、目標とすれば良いと思います。ただ、家族やケアマネさんからこういう希望がありますというのは聞きますが、これがやりたいのだというものがない方もおられます。

 

家族の介護負担を減らす、苦痛を減らすというのは大事な目標です。生き生きした生活、自分らしい生活の目標を、重度の障害を負ってしまった方や老衰が進行してしまった方はどのように、どの方向をむいていけば良いのか迷ってしまいます。

 

苦痛を防ぎ、穏やかな生活のためのリハビリ。人生においては必要なことだと思います。今後国が求める介護予防とは少し方向性が異なっている気がします。今後効果判定が求められれば、変わらないことが効果がでていることになるのでしょうか。将来、このような目標とするリハビリは、介護保険から切り離される運命かもしれません。