私たちがいる生活とはなにか

地域リハビリテーションの定義では「いきいきとした生活がおくれるよう」という文言があります。また、地域包括ケアシステムの定義では「住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう」という文言があります。現在の地域医療介護や社会福祉の主流的な考え方である地域リハビリや地域包括ケアシステムの中でのキーワードとなっている生活と暮らしとは一体なんなのか?

 

リハビリの問題点を考える上で利用するICFでも、心身機能•身体構造、活動、参加は生活や暮らしの中での事柄となります。生活とは、生きていること。生物がこの世に存在し活動していること。人が世の中で暮らしていくこと。暮らすとは、日が暮れるまで時間を過ごす。日々を送る。生活する。(全て大辞泉より)

 

定義を見ると、生活すると暮らすでは、生活に目標を置くことが妥当だと私は考えます。暮らすの意味にある時間を過ごす、日々を送るというなら、寝たきりでも、何にも活動しなくても達成しうるものだと思います。生活するとなれば、生存して活動することであり、家族や社会がその存在を認めること、かつ活動、生態の生理現象から実際の日常生活の中での行為まで言うのでしょう。この生活の言葉に加えていきいきと、自分らしくが修飾されます。

 

いきいきとは、生命力にあふれた、活発ななど元気な印象を受ける言葉です。自分らしくのらしくとは、理由や根拠の推量、ぴったりの状態やよく似た状態を表す。つまり、いきいきには一般的な健康の定義、すなわち身体、精神、社会的に健康であることを当てはめて、自分らしくには、本人家族から得られた病前や今までの生活の価値観を踏襲した意思決定、生活スタイルを当てはめていくのが良いと考えます。

 

地域リハビリのいきいきした生活、地域包括ケアの自分らしい暮らしという言葉には、単に活動や参加で達成されていない項目があるだけでなく、身体精神社会での健康を確保しつつ、その価値観に沿って新しい生活を手に入れるためのリハビリ、システム作りにならなければなりません。

個人の自由はどこで主張されるのか

社会人になってから、病院や事業所という職場で髭や服装について話し合われることが度々ありました。例えば、顎髭を伸ばしてもいいのか、腰パンはいいのか、ダメージズボンはいいのかがそのことに該当します。

 

さかのぼると、中学高校生のときには生活指導の先生から制服のチェックが定期的に行われていました。ピアス、茶髪、学ランの長さ、スカートの長さなどなど個人の好みを主張している友達が沢山いました。当時私はこのことに関しては全く関心はなく、いい悪いの判断をする意思もありませんでした。

 

大学の臨床実習が始まるときに先生から、とにかく服装や言動に注意せよという話を散々受けました。患者さん、職員さんがそれらの服装や言動から受ける印象は大きいということは社会人になってかなり感じることです。社会人になると学生を評価視点で見てしまうという傲慢さもあるのかもしれません。今でも新しく入った職員さんに対しては、どんな言葉使い?服装?言動?をしてるのかと目を光らせてしまいます。

 

さて、社会社会と話していますが、学生ではなくなってどこかの会社に所属した場合には個人の自由はどこまで許されるのか。いわゆる会社の職員さんの服装や顎髭が周囲に与える印象は、会社の印象になると私は考えます。というのは、こうした服装などの自由を容認していると捉えられるのではないかと考えるのです。

 

会社と雇用契約すれば、会社に不利益を生じさせないことが働く前提となると考えます。

これからの人生の目的をどう定めるか

リハビリを提供する方は色々な境遇の方がいます。回復期リハビリ病院に入院している時には、自宅に帰って一人でもしくは家族と生活できるような体の状態を目標にリハビリを行なっています。自宅に戻れば、その方の生活が継続できるようにご自身やリハビリが介入していきます。その中でも職場への復帰を次の目標にするかたもいます。

 

私が担当した方の中にも見事に職場復帰された方がいました。日常生活動作能力は概ね自立しておりましたが、記憶や遂行機能など高次脳機能障害もありました。もとの仕事とまではいきませんでしたが、同じ会社にもどることができました。会社の助けもありながら少しづつ仕事になれていきました。生活も安定た生活がつづいていると言えるでしょう。

 

そこで私が考えたことは、このままリハビリ は必要なのかということです。日常生活は自立して、職場復帰を果たして、生活は安定している状態です。本人に伺えば気になることは麻痺している手足の機能回復の要望が聞かれます。しかし、それはいわゆるdemandでありneedsではないのではないか。

 

ある種身体機能の終わりなき回復への希望、すなわちリハビリが目的となっているのではないか。現在では医療報酬、介護報酬の観点からして効果のでないダラダラと続くリハビリは行うべきではないという考え方です。しかし、一方では昨日まで動いていた手足が一日で全く別人のものになってしまった状態を数ヶ月、一年で受け入れることができるのでしょうか。大学受験はまた来年あります。生活ができなくなるわけでもありません。家族との離別があるわけではありません。

 

現在の日本はあまりに環境的制限が多すぎます。階段や段差、エレベーターなどの物理的環境、障害者を雇ってくれる会社の少なさなど社会的環境の制限がそれです。これらの多くが解消されたときに、リハビリ自体が目標となることがへるのでしょう。生活にゆとりある経済状況と、自由な外出と生活。まさに生活の復活となるのでしょう。

 

私たちリハビリに関わる職種は、現在これらの環境に対してどのような介入ができるのか。自宅の中や自宅周辺の環境を変えることはできるのかもしれません。しかし、住み慣れた地域や外出先すべての環境を変えることは並大抵のことではありません。会社の仕事全てを障害を持つかたに適応することはできません。

 

私たちは患者さん一人一人に介入しています。しかし、一人の方の新しい人生の手助けをするためには、会社や役所といった環境に対しても介入する必要があるでしょう。

 

未来の生活はどうなるのか

訪問リハビリで訪問している患者さんは、若い方から高齢者までいます。どの方も生活が継続できるのか、少なからず心配して生活を送っておられます。

 

子どもや年齢が若い方は、確実に両親の方が先に亡くなっていきます。それがあるから、未来の患者さんの生活が心配になるでしょう。

私もリハビリとして、現在の生活が続けていけるように介入しています。しかし、20歳、30歳と年齢を重ねていくと、どんな環境で生活していくのか想像がつきません。そして、自分が生活の継続を安定化するために何ができるのか。

 

車椅子や装具、生活援助機器の申請1つ取ってみても、担当のリハビリの思いと、判定に関わるリハビリとでは大分温度差があると思います。そして、その判定に関わる方々が本当に、当事者の生活が理解できているのかはわかりません。客観性を保つためには、ドライで客観的な評価が必要です。その評価を我々がいかに客観性とともに、現状を表すことができるものにするかが大事です。

 

行政に現場の声を届けるために、どんな評価とその表出方法についてどんなものがいいのか考えていこうと思います。